『時には懺悔を』ネタバレ結末!犯人は誰?タイトルの意味を考察

西島秀俊、満島ひかり、黒木華、宮藤官九郎、柴咲コウ、佐藤二朗、役所広司――。

実力派俳優が集結した映画『時には懺悔を』は、一人の探偵が殺された事件から始まります。

ところが調査を進めるうちに浮かび上がってくるのは、9年前に起きた新生児誘拐事件と、重い障がいのある少年・新の存在です。

事件の真相を追うミステリーでありながら、次第に物語は「親とは何か」「罪を抱えた人間はどう生きるのか」という問いへと変わっていきます。

この記事では『時には懺悔を』のネタバレあらすじから、米本殺害事件の犯人、9年前の誘拐事件、結末、そしてタイトルに込められた「懺悔」の意味まで考察します。

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目次
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『時には懺悔を』ネタバレあらすじ|結末までの流れ

物語は、一人の探偵が殺されたところから始まります。

殺されたのは米本洋一(佐藤二朗)。

同業者からさえ「死んだほうがマシな人間」と言われるほど評判の悪い探偵でした。

米本の元同僚で、一匹狼の探偵として生きる佐竹三雄(西島秀俊)は、かつて所属していた探偵社のオーナー・寺西(役所広司)から米本殺害事件の調査を依頼されます。

さらに、探偵修行中の中野聡子(満島ひかり)が助手として加わります。

二人が米本の死の直前の仕事を調べていくと、ある少年の存在にたどり着きます。

それが、明野哲夫(宮藤官九郎)と暮らしている、重い障がいのある少年・新です。

しかし明野と新は、本当の親子ではありませんでした。

新は9年前、新生児だったころに誘拐された子どもだったのです。

明野はその後、新を自分の子どもとして育て続けていました。

一方、新の実母である尋津民恵(黒木華)は、我が子が生きていることを知っても、すぐに「取り戻したい」とは言えません。

重い障がいのある子どもを再び自分が育てられるのか。

新しい家庭を壊してしまうのではないか。

民恵には、母親だからというだけでは片付けられない葛藤がありました。

そして佐竹自身にも、新と無関係ではいられない過去があります。

佐竹にもかつて重い障がいのある息子・正樹がいました。

しかし佐竹は息子と向き合うことができず、育児を妻・由紀(柴咲コウ)に任せ、家族から逃げるように仕事へ没頭していました。

新を献身的に育て続ける明野を見ることは、佐竹にとって、自分が逃げ続けてきた過去を見ることでもあったのです。

やがて明野は、9年前の誘拐事件と向き合い、自首することになります。

そして新は、実母である民恵に引き取られることになります。

ところが、ここまで物語を動かしてきた米本殺害事件には、まったく別の真相がありました。

米本を殺した犯人は、明野でも民恵でもありません。

米本自身の息子だったのです。

しかも米本は、息子に刺されたあとも、息子を警察から守ろうとします。

返り血のついた服を着替えるよう指示し、事件現場に残った証拠を消そうとしながら、米本は命を落とします。

「死んだほうがマシ」とまで言われていた男が、最後の瞬間には父親として息子を守った。

ここで物語は、単純な「善人と悪人」という線引きを完全に壊します。

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『時には懺悔を』犯人は誰?米本殺害事件の真相を考察

米本を殺した犯人は、米本自身の息子です。

しかし、この犯人が明らかになる場面は、一般的なミステリー映画のような「伏線回収による大どんでん返し」とは少し違います。

むしろ重要なのは、「なぜ犯人が息子だったのか」という点ではないでしょうか。

米本は周囲から嫌われ、家族との関係も壊していました。

そして最後には、その息子自身から命を奪われます。

ところが米本は、刺した息子を告発しません。

最後まで息子を守ろうとします。

ここに『時には懺悔を』の残酷さがあります。

人間として立派だったから、良い父親とは限らない。

反対に、人間として多くの間違いを犯した人間の中にも、子を守ろうとする感情が残っている。

米本を「悪人」と決めつけた瞬間、映画は最後に父親としての姿を見せます。

そのため米本殺害事件は、単なる犯人当てではありません。

明野、民恵、佐竹、米本。

それぞれ違った形で失敗した「親」を並べるための事件だったと考えます。

犯人が誰なのかより、「親とは何なのか」という問いこそが、この事件の本当の謎だったのではないでしょうか。

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9年前の新生児誘拐事件で何があった?

9年前に誘拐された少年・新。

そして現在、新を育てている明野哲夫。

法律上だけで考えれば、明野は誘拐犯です。

どれだけ新を大切に育てていたとしても、他人の子どもを連れ去ったという罪が消えるわけではありません。

しかし映画は、そこで明野を単純な犯罪者として描きません。

長い年月、新の食事や医療、日々の生活を支え、父親として暮らしてきた姿を見せます。

一方、実の母親である民恵は、新をすぐに引き取ろうとはしません。

ここで映画が突きつけるのが、二つの非常に厄介な問題です。

「産んだ人が親なのか」
「育てた人が親なのか」

ただし、答えは「育てた明野こそ本当の父親だ」と単純化することでもありません。

明野が新を愛していることと、誘拐という犯罪を犯したことは両方とも事実です。

同じように、民恵が新を愛せなかった過去と、重い障がいのある子どもを育てることへの恐怖や現実的な負担も、どちらか一方だけを切り取ることはできません。

『時には懺悔を』は、誰か一人を悪者にして観客を安心させてくれません。

むしろ、「もし自分が同じ立場だったら、本当に正しい選択ができただろうか」と観客側に問い返してきます。

新生児誘拐事件は犯罪事件でありながら、それ以上に「親になるとはどういうことか」を突きつける事件だったと考えます。

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『時には懺悔を』結末を考察|救われたのは新だけではない

最終的に明野は自首し、新は実母・民恵に引き取られます。

明野は罪に問われ服役し、民恵は新を自分の子どもとして育てていきます。

そして新は、11歳で生涯を終えたことが語られます。

決して明るいだけの結末ではありません。

しかし、事件が解決したことで全員が元の場所へ戻ったわけでもありません。

むしろ重要なのは、新と出会ったことで、それぞれが「これからどうするのか」を選ばざるを得なくなったことです。

佐竹は、自分が向き合えなかった息子との関係を見つめ直すことになります。

民恵は、新の母親として生きる道を選びます。

そして明野も、新を育ててきた9年間とは別に、自分が犯した誘拐という罪に責任を取ります。

その中心にいた新は、誰かを説得したわけでも、裁いたわけでもありません。

ただそこに生きていたことで、大人たちが自分自身の選択を見直すきっかけになりました。

だから新は「大人たちを救った特別な存在」というより、「大人たちに、もう一度選択する機会を与えた存在」だったのではないでしょうか。

この映画の結末で描かれたのは、すべてが元通りになる救済ではありません。

取り返せないものを抱えながらも、その後の生き方を選び直すこと。

そこに、この作品が描く一つの「再生」があったのではないでしょうか。

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タイトル「時には懺悔を」の意味とは?

タイトルに使われている「懺悔」という言葉。

公式サイトでも、心の奥に沈めてきた罪と向き合い、再び前を向くためのきっかけとして描かれています。

ここで重要なのは、「懺悔=許してもらうこと」ではないという点です。

謝罪すれば罪がなくなるわけでも、誰かに許されれば過去を書き換えられるわけでもありません。

では、なぜタイトルは『時には懺悔を』なのでしょうか。

注目したいのは、「懺悔」だけではなく、その前にある「時には」という言葉です。

常に自分を責め続けろ、という意味ではない。

逆に、すべて忘れてしまえばいいという意味でもない。

人生のどこかで一度、自分のしたことを振り返る。

自分に都合のいい理由をつけるのではなく、以下のことを自分自身に問い直す。

「何をしたのか」
「誰を傷つけたのか」
「本当は何から目を背けていたのか」

その瞬間こそが、この作品における「懺悔」なのではないでしょうか。

だからタイトルは「懺悔しろ」でも「懺悔せよ」でもありません。

『時には懺悔を』。

命令ではなく、静かに差し出される言葉になっています。

そしてこの言葉は、佐竹や明野たちだけではなく、映画を観た側にも向けられているように感じます。

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原作との違いは?映画版で強くなった佐竹の「懺悔」

原作は、打海文三さんが1994年に発表した同名小説『時には懺悔を』です。

打海さん自身が障がいのある息子を育てた経験をもとに書いた作品で、探偵・佐竹を主人公とする「アーバン・リサーチ」シリーズの一作でもあります。

映画版で特に強く前面に出ているのが、佐竹自身の家族との関係です。

佐竹には重い障がいのある息子・正樹がいて、自分の息子と向き合えなかった過去があります。

その佐竹が調査の中で出会うのが、誘拐という罪を犯しながら、新を長年育ててきた明野です。

つまり映画では、事件を調べる佐竹自身もまた、物語の中で問われる側に置かれています。

この構造によって「懺悔」というタイトルが、事件の登場人物だけではなく、主人公・佐竹自身にも強く結びついていると考えます。

原作を読んでから映画を見ると、登場人物の心情や「懺悔」という言葉の重みが、より深く感じられます。映画との違いを確かめたい方は、原作もチェックしてみてください👇


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『時には懺悔を』を観た感想・評価|重いのに「観てよかった」という声

公開後の感想を見ると、特に多いのが、以下の通りです。

「重い」
「見ているのがつらい」
「泣いた」
「それでも観てよかった」

探偵殺害事件から始まるため、最初はサスペンスやミステリーを想像します。

ところが途中から、映画の中心は犯人探しではなく、障がいのある子どもをめぐる親たちの本音へ移っていきます。

そのため、爽快などんでん返しや事件解決を期待すると、かなり違う作品に感じるかもしれません。

一方で、西島秀俊さん、満島ひかりさん、黒木華さん、宮藤官九郎さん、佐藤二朗さんらの演技については高く評価する声が目立ちます。

特に「誰が正しいのか簡単には決められない」という作品の重さが、鑑賞後まで残ったという感想が多く見られます。

ただし、題材が非常にセンシティブであるため、「描き方がつらかった」・「簡単には賛同できない」・「ミステリーとして見ると犯人の明かし方が唐突」といった意見が出るのも当然だと思います。

むしろ賛否が分かれること自体が、この作品が簡単な答えを用意していない証拠なのかもしれません。

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実際に観て感じたこと|「懺悔」は過去を消すことではない

実際に映画を観て、最も強く残ったのは「親だからといって、最初から子どもを受け入れられるとは限らない」ということでした。

重い障がいがあると告げられたとき、親が感じるのは愛情だけではありません。

先の見えない不安や責任、これからずっと続いていく生活への重圧に、目の前が真っ暗になることもあると思います。

その意味では、新と向き合うことができなかった民恵や、自分の息子・正樹から目を背けた佐竹の気持ちは、単純に「ひどい親」と切り捨てられるものではないと感じました。

私自身にも、障がいのある子どもを育てた経験があります。

だからこそ、「あのとき、もっと優しくしてあげればよかった」「もっとこうしてあげればよかった」と、過ぎてから思う気持ちには強く重なるものがありました。

過去にしてしまったことは消せません。

どれだけ時間が経っても、「あのとき、もっとこうしていれば」と思う気持ちが完全になくなるわけではない。

だからこそ、ときどき立ち止まり、自分がしてきたことと向き合う。

それが、この映画のタイトルにある「時には懺悔を」という言葉なのかもしれないと感じました。

そしてもう一つ印象に残ったのが、米本の描かれ方です。

米本は汚い仕事を続け、周囲からも決して好かれている人物ではありません。

家庭もうまくいかず、自分の息子との関係も壊れていました。

そんな米本が、明野と新の暮らしを見たときだけは、二人を利用したり脅したりせず、新のために施設を探そうとしていたことが最後に明かされます。

自分自身は「親子の関係をどこで間違えたのか」と苦しんでいたからこそ、血のつながりがなくても新を愛情深く育てる明野の姿に、何か心を動かされたのではないでしょうか。

汚いものばかり見てきた米本にとって、明野と新の姿は、ほんの少し心を洗われるようなものだったのかもしれません。

この映画は、誰が正しいのかを決める作品ではありませんでした。

親であっても間違えるし、愛せない瞬間もある。

反対に、罪を犯した人間の中にも愛情はある。

そして誰にでも「あのとき、こうしていれば」という後悔が残る。

だからこそ『時には懺悔を』は、特別な人だけの物語ではなく、観る側にも自分の過去を振り返らせる作品だったように思います。

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SNSでも「想像していた映画と違った」「俳優陣がすごい」の声

『時には懺悔を』には、公開後のSNSでもさまざまな感想が投稿されています。

まず見られたのが、サスペンス作品だと思って観始めたものの、まったく違うテーマを突きつけられ、引き込まれたという感想です。

「感想を言葉にするのが難しい」と感じるほど、簡単には割り切れない内容だったという声もありました。

また、作品そのものを非常に高く評価する意見も見られます。

「これ以上の実写化はなかなかないと思わせるほど見事な出来栄え」と、映画化を高く評価する声がありました。

さらに、重度の障がいがある子どもを描いたことについて、簡単には感想をまとめられないという意見もあります。

きれいごとだけではない社会を描いている一方で、当事者本人の思いをどう受け止めればいいのか難しいという感想でした。

その中でも、満島ひかりさんと宮藤官九郎さんの演技については、高く評価する声が見られました。

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まとめ|『時には懺悔を』が描いた罪と親子

『時には懺悔を』は、米本殺害事件を追うミステリーとして始まります。

しかし事件を調べるうちに9年前の新生児誘拐事件へとつながり、物語の中心は「犯人は誰なのか」から「親とは何か」という問いへ移っていきます。

米本を殺したのは実の息子。

新を誘拐した明野は、その後9年間、新を育て続けました。

そして実母・民恵や佐竹にも、それぞれ家族と向き合えなかった過去があります。

この映画が印象的なのは、誰か一人を完全な善人、あるいは悪人として片付けなかったことです。

行為の正しさと、人を思う気持ちは必ずしも一致しません。

だからこそ、事件の真相が分かったあとにも答えが残ります。

そしてタイトル『時には懺悔を』が示しているのは、罪をなかったことにする方法ではなく、自分自身の選択を振り返る時間なのではないでしょうか。

犯人を知って終わるのではなく、「自分ならどうしただろう」という問いが観客側に残ることこそ、この作品の大きな特徴だと考えます。

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